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松山の偉人たちのキャラを拝見

松山の偉人たちのキャラを拝見

司馬遼太郎作『坂の上の雲』の主人公、正岡子規、秋山好古、秋山真之の三人は青雲の志を抱いて明治という上昇気流の時代を生きました。司馬遼太郎氏は、彼らの持つ人格のすがすがしさ、潔さを愛しましたが、その輝きと透明感は、まさに明治という時代をうつし出していました。
『坂の上の雲』を見つめて大きな仕事を成し遂げた松山ゆかりの人物はたくさんいます。その人たちに共通するのは、気概を持ち、誇り高く、私心を超えて生きた人のみが持つ魂の光ではないでしょうか。
彼らの生き方に思いをはせながら、松山に残る足跡を訪ねてみてください。

(写真 / 松山市立子規記念博物館所蔵)

※司馬遼太郎氏の「遼」は、しんにょうの点が二つです。

正岡 子規 まさおか しき(1867~1902)【俳人】
正岡 子規 まさおか しき(1867~1902)【俳人】

明るく親分肌をした近代文学史上の巨人

松山市花園町生まれ。写生の心で俳句と短歌の刷新を行い、伝統の文芸に新しい息吹を与えた。また、平明な日本語の散文を作り上げ、司馬遼太郎は「子規が大好きだ」と言ってはばからず、のびやかで屈託のない、透明な明るさを持つ人物ととらえていた。また「日露戦争までの明治、まだ見込みのあったころの日本人の象徴」と最大級の賛辞を送っている。35歳という短い人生だが、近代日本文学史上、偉大な業績を残した。親分肌で、門下からは虚子・碧梧桐をはじめ、伊藤左千夫や長塚節など、すぐれた俳人・歌人を輩出した。晩年は寝たきりだったけれども、死に至るまで溌剌とした気力を失わず、超人的な仕事をなした。

秋山 好古 あきやま よしふる(1859~1930)【軍人・教育者】
秋山 好古 あきやま よしふる(1859~1930)【軍人・教育者】

おおらかで風格ある騎兵の“父”

松山市歩行町生まれ。藩校明教館に学ぶ。陸軍大学を経てフランスへ留学し、日本騎兵隊の創設者となる。日清・日露戦争で活躍し、陸軍大将、教育総監なども務めた。日露戦争では無敵といわれたコサック騎兵団を打ち破った。名利を求めず、晩年は故郷に帰って私立北予中学校(現・松山北高等学校)の校長として教育界に貢献した。清廉潔白、器量の大きな風格ある人物で、人情味豊かなエピソードは数えきれない。司馬遼太郎は、彼にはえもいわれぬ風韻(おもむき)があると讃えた。

秋山 真之 あきやま さねゆき(1868~1918)【軍人】
秋山 真之 あきやま さねゆき(1868~1918)【軍人】

智謀湧くがごとき戦術の天才

好古の弟で子規の親友。海軍兵学校を経て、米国へ留学。俊敏な頭脳と天才的な戦術で、日露戦争の時には、連合艦隊司令長官・東郷平八郎の参謀として海軍の作戦のすべてを任され、日本海海戦ではバルチック艦隊を撃破した。文章の才もあり「本日天気晴朗なれども波高し」の電文で知られる。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで、腕白で愛すべき稚気を持つ真之の性格を見事に浮かび上がらせている。日露戦争後は、シーメンス事件の後処理に奔走したり、近代中国建国の父・孫文の運動を支援したりする。大正6年に中将に進んだが翌年50歳で病没した。

高浜 虚子 たかはま きょし(1874~1959)【俳人】
高浜 虚子 たかはま きょし(1874~1959)【俳人】

バランス感覚にすぐれた、俳句界の大御所

松山市湊町生まれ、北条に育つ。幼い時は虚弱で運動が苦手、学校では優等生だった。河東碧梧桐の紹介で子規を知り、俳句を志し、俳誌『ホトトギス』を引き継いで子規の後を継承する。定型調で「花鳥風詠」をモットーとする古典主義を唱え、親友で新傾向を唱える碧梧桐と袂をわかつ。小説に夢中になった時期もあったが、非凡な経営力でホトトギス王国を築き、俳句界の大御所として終生君臨し続けた。堅実でバランス感覚があり、調和を重んじ、堅実な生き方を好んだ。弟子の才能を引き出し育てる指導力にもすぐれていた。『ホトトギス』からは水原秋桜子、山口誓子、中村草田男(松山出身)、中村汀女ら傑出した俳人が多く誕生した。

河東 碧梧桐 かわひがし へきごとう(1873~1937)【俳人】
河東 碧梧桐 かわひがし へきごとう(1873~1937)【俳人】

純粋な芸術家タイプで、自由律俳句の提唱者

松山市千舟町生まれ。少年の頃から腕白なガキ大将で、松山中学で高浜虚子と知り合い、京都・仙台の同じ旧制高校に学んで同じ下宿に暮らすほど、親しくつきあった。俳句を子規に学び、虚子とともに子規門下の双璧といわれたが、子規没後、新傾向俳句に向かい、常に斬新な表現を求めて虚子と対立した。碧梧桐の俳句は、因習にとらわれず、自由な個性を求める人々の間に熱い衝撃を呼び覚ますことになる。豊かな芸術的才能に恵まれて多芸多才、書家としても有名だった。純粋で生きるに不器用だったが、清廉潔白で、裏表のない人柄が愛された。

加藤 拓川 かとう たくせん(1859~1923)【外交官・政治家】
加藤 拓川 かとう たくせん(1859~1923)【外交官・政治家】

無私で洒脱なリベラリスト

松山市歩行町生まれ。子規の叔父で、陸羯南に子規を引き合わせた人物。シベリア撤兵等に貢献した外交官で、衆議院議員等を務めたリベラルな政治家でもある。晩年、松山市長を務めた時には、陸軍省から城山公園を払い下げて市民に開放し、松山高等商業学校(現・松山大学)の創立にも尽力した。私心がなく、純で潔白な心根の持ち主。また、漢文や書をよくし、フランス文学を愛する洒脱な趣味人でもあった。司馬遼太郎作『ひとびとの跫音』の中心人物、正岡忠三郎(子規の死後、正岡家の養子になる)は拓川の三男で、この本では、淡泊で闊達、忠恕の人として拓川もしばしば登場する。

水野 広徳 みずの ひろのり(1875~1945)【軍人・作家】
水野 広徳 みずの ひろのり(1875~1945)【軍人・作家】

非戦を訴えた憂国の軍人

松山市三津浜生まれ。日露戦争の日本海海戦に参戦し、その模様を『此一戦』に著して、当時のベストセラーになった。だが、第一次世界大戦後のヨーロッパを視察、戦争の悲惨さを直接見聞し、徹底した平和主義者にかわる。その後、野に下り、評論家として非戦・平和論を展開した。軍部からにらまれ、日米戦争論には真向から反撃したが、著書は発禁となり、新聞雑誌の寄稿も抑えられた。正宗寺の歌碑に刻まれている歌「世にこびず人におもねらず我はわが正しと思ふ道を進まむ」は、彼の生涯を貫いた信条だった。

伊佐庭 如矢 いさにわ ゆきや(1828~1907)【町長】
伊佐庭 如矢 いさにわ ゆきや(1828~1907)【町長】

「先見の明」で道後温泉本館を造った名町長

道後生まれ。愛媛県の役人などを経て、明治23年62歳の時、道後湯之町の町長に請われた。町長となった彼は、本館の改築に城大工を棟梁にすえて三層楼の壮大な建物を計画するが、当時、地方では桁はずれの大プランに、身の危険があるほどの反対があった。「人の心をひくのは容物が大事ぞな。百年のちまで他所がまねできんようなものを作ってこそ、初めてそれが物を言うことになるんじゃなかろかなもし‥」。こう説いて反対派を説得し、現在の本館を造った。頭脳明晰で人望のあった如矢の、百年先を見つめた先見の明が、今日の道後の繁栄を築いたといえる。

安倍 能成 あべ よししげ(1883~1966)【教育者・哲学者】
安倍 能成 あべ よししげ(1883~1966)【教育者・哲学者】

ヒューマニズムあふれる自由主義者

松山市大街道生まれ。幼い頃から神童と呼ばれ、東大哲学科、大学での教職、一高校長の道を歩む。昭和21年来日した米国教育使節団に、文部大臣として述べた「あなたがたは、戦争に負けた日本が、勝ったアメリカの言いなりになることを望まないと思う。日本の教育の改革に協力して欲しい」という内容の演説は有名。早々と大臣を辞めた後は学習院院長となり、終生その職を務めた。リベラルな哲学者だが、彼自身はまず教育者であることを望み、すべての人に存在価値を見出して、それぞれの花を咲かせようと、誠実に歩んだ。“信念の人”で、彼を生涯の師と仰いだ人は多かった。