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『坂の上の雲』登場人物のちょっとイイ話

『坂の上の雲』登場人物のちょっとイイ話。あの人にあんなエピソードが!意外な話、素敵な話をご紹介。

第8回 子規の叔父・加藤拓川は、私心なき反骨のリベラリスト

反骨の外交官として知られ、晩年、松山市長を務めた加藤拓川(かとうたくせん)は、甥の子規に上京をすすめ、親友で日本新聞社長の陸羯南(くがかつなん)に引き会わせました。
子規の人生に大きな影響を与えた加藤拓川という人物をご紹介しましょう。

加藤拓川は藩校・明教館では、秋山好古と並び称される秀才でした。司法省法学校(現在の東大法学部)に入りますが、校長と対立して退学処分になり、その後、自由民権運動の思想的指導者・中江兆民(なかえちょうみん)の私塾で学んで、リベラリストとしての素地を身につけます。

明治16年、旧藩主久松定謨のフランス留学に随行し、パリの法科大学や政治学校で学んで、その後、外務省に入って外交官生活を送りました。清廉潔白で公私のけじめに厳しく、毒舌外交官として知られた彼は、広く国際会議の場で活躍しましたが、時の韓国統監・伊藤博文の方針に異議を唱え、外交界に見切りをつけて退職しました。

その後、衆議院議員を経て、大正11年第5代松山市長に就任します。翌年逝去するまでの短い期間でしたが、陸軍省から城山公園を払い下げて市民に開放したり、松山高等商業学校(現・松山大学)の創立に尽力したりしました。

拓川の死に際しては、「松山市には過ぎたる人物。地方的人物としては、余りにその器が大で、力量余りにも強い」という論評が、新聞に掲載されたそうです。

拓川は私心がなく、純で潔白な心根の持ち主。権力に媚びない強さを持っていた反面、人情味豊かで、漢文や書をよくし、フランス文学を愛する洒脱な趣味人でもありました。拓川と子規は相通じる側面をたくさん持っていたように思われます。

なお、「拓川」という号は、彼の愛してやまなかった石手川を表しています。

Information

  • 温山会館(おんざんかいかん)(松山大学内)
  • 温山会館(おんざんかいかん)(松山大学内)

    松山大学構内にあり、90年近い同校の歴史資料が集められています。2階の資料室には拓川の書も展示されています。

    DATA

    所在地/松山市文京町4-2
    お問い合わせ/TEL089-926-7141 (温山会館事務室)
    交通/路面電車電停鉄砲町から徒歩5分
    入館料/無料
    開館時間/9〜16時(見学は事前に要連絡)
    休日/土・日曜、祝日。大学一斉休暇中、入試期間中
    駐車場/なし

第7回 '水魚の交わり'だった漱石と子

明治28年から約1年間、夏目漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学)の英語教師として松山に滞在しました。この時の経験は、10年後に小説『坊っちゃん』となって結晶化します。

私たちは、ともすれば坊っちゃんと漱石をオーバーラップさせがちですが、素顔の漱石先生は、坊っちゃんのように生徒や教師と悶着を起こす事もなく、また、同僚と親しく交わることもなく、静かで孤独なジェントルマンだったようです。
畏友・子規のふるさとであった松山ですが、漱石の松山評は最初から辛辣で、最後まで好転することはありませんでした。

漱石にとって松山は、下宿先である愚陀佛庵での子規との生活に、大きな意義がありました。
52日間に及ぶ子規との同居。後に漱石は、「子規が転がり込んできた」「仕方なく俳句を作った」と記していますが、実はよんだのは漱石の方であり、俳句の添削も自ら子規に頼んでいたのです。

真面目で礼儀正しい漱石は、豪快で親分肌の子規に振り回されましたが、それは決して不快ではなく、漱石は子規にウナギを食べさせて滋養をとらせたり、布団の下にそっと紙幣を置いたりと、並々ならぬ友情で子規に接したのでした。

この間、子規の手ほどきで俳句に目覚めた漱石は、漢学や英文学の素養があったためでしょう、上達が早かったようです。子規と一緒に散策し、道後や市内各所を詠みました。以後数年に渡って、子規に句稿を送り、添削を受けています。

漱石の娘婿・松岡譲が、“子規は漱石の産婆役”だったと語っているように、創作への開眼は子規によって行われました。「初めに表現ありき」の子規に対して、漱石の自己表出はまだ揺籃期。小説という手段を得るには、さらに長い熟成の時を経なければなりませんでしたが、文豪・漱石は、愚陀佛庵からスタートしたといっても過言ではありません。

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第6回 貧乏だが学問的環境に恵まれていた、子規の少年時代

幼い頃の子規は、野外を駆け回る活発な子どもではありませんでした。むしろ泣き虫で弱虫。表に出ると泣かされて帰ってくる気の弱い子どもでした。
しかし、子規の家系は学問好きが多く、貧乏ではありましたが、勉学をする環境には恵まれていました。

外祖父に当たる松山藩の儒学者・大原観山の私塾を訪ねて、漢詩の素読を学んだのもその一つ。また、漢学者・河東静渓(碧梧桐の父)に師事し、多大な感化も受けました。
子規は、私塾において武士の伝統的教育としての漢学(儒学)を学び、小・中学校では欧化教育を受けて、開明の世をとらえていったようです。

中学に入学する頃、子規のための書斎が完成しました。小説『坂の上の雲』の中で秋山真之に自慢げに見せた勉強部屋です。

以来、ここに閉じこもって、読書をし、漢詩を作り、絵を描き、雑誌を作り、写本をしました。書斎は、机の上も本箱の中も、本や紙などが散らかっていて、足の踏み場もない状態でした。その頃、八重は裁縫を教えていたので、近所の娘さんたちが毎日習いに来ていましたが、子規は目もくれなかったようです。

子規の家は清らかな中ノ川のそばにあり、庭にある古木の桜が春には爛漫の花を咲かせていました。ささやかなこの家で、彼の卓抜した才能は、徐々に膨らんでいったのです。

彼は、貧しくも恵まれた学問的環境の中で、少年時代を送ったのでした。

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  • 子規堂(正宗寺)
  • 子規堂(正宗寺)

    正宗寺は正岡家の菩提寺で、子規堂は、正宗寺住職・仏海禅師が子規と竹馬の友であったことから、子規の業績をたたえるため、子規が17歳まで過ごした邸宅を移築したのが起源。

    子規堂(正宗寺)はこちら。

第5回 確かな見識と豊かな国際感覚を持った教育者・好古

秋山好古が、現在の県立松山北高校の前身、私立北予中学校の校長に就任したのは、大正13年のことでした。これは当時、“田舎の無名な”学校の校長に就任したとして、大層なニュースとなりました。
というのも、その頃、好古のような陸軍大将の地位にあったならば、爵位をもらえたでしょうし、贅沢な暮らしも思うがままだったからです。

校長職を要請されたとき、好古は「日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食ふことを考へる。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」と言って引き受けたそうです。

彼はまだ予備役という軍籍にありながら、背広姿で通しました。登校に馬を使ったのは遠足など特別の時に堀之内の二十二連隊に借りただけ。6年間、無遅刻無欠勤、毎日20分前には学校に到着していたといいます。

好古の教えは「質実剛健進取不止(まじめにしっかりと、自ら進んで事をなすことをやめない)」という言葉に集約されています。
当時、全国の中学校で必修とされていた軍事教練は、必要最小限にとどめ、デンマークの酪農の例をひきながら、生徒らに農牧業の発展性を教えたり、生徒には海外を見せて広い見聞を身につけさせたいと、日本統治下の朝鮮に修学旅行に行かせたりしました。

広い視野で教育を行った好古。彼は人を作る、育て上げるということに長けていたのではないでしょうか。

昭和5年、体調を崩した好古は北予中学校を退職、家族の待つ東京へ戻りますが、わずか7ヵ月後にこの世を去ります。まさに、人生最後の精力をすべて故郷での教育に注いだのでした。

Information

  • 旧北予中学校(松山北高校)
  • 旧北予中学校(松山北高校)

    松山北高校八十周年記念館玄関には好古の胸像があり、また、校史資料室にも好古に関する資料がある。資料室の見学は団体対象で事前申請が必要。

    旧北予中学校(松山北高校)はこちら。

第4回 最後まで生き生きと、心を活発に働かせた子規

35歳を目前にして亡くなった子規。
晩年の6年間は臥床の身で、病の床から、俳句、短歌、文章の革新に力を注ぎ、時代をリードしていきました。寝たきりになってからは、食べるのも書くのも、排便も布団の上。六尺の病床が全世界。痛みに耐えかねて泣き叫び、家人にあたりちらすこと数えきれず。自殺を考えたこともありました。

死の前年に書かれた随筆『墨汁一滴』、当年に書かれた『病牀六尺』などでは、自分の容態や絶叫・号泣する姿、苦しい胸のうちを、どこまでもオープンに赤裸々に、時にユーモラスに語っています。

病魔と闘いながらも、子規のこころは、最期まで生き生きと弾んでいました。苦しみの合間に、俳句や歌はもちろん、文学論や美術論から食べ物など身近なことまで、好奇心のおもむくまま、縦横無尽に述べています。
また、亡くなる前年には、絵筆を握って、「菓物帖」「草花帖」「玩具帖」も作りました。
彼は赤い色が大好きで、活力ある「赤」に、深い思いを寄せていたようです。

子規は自分の死を悟っていました。諦めていました。
その上で、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味がない、と書いています。
不治の病までも楽しむ強靭な精神。何が子規をそうさせたのでしょうか。

文学革新という使命感が心の支えになっていたことは想像に難くありませんが、子規にとっての悟りとは、いかなる場合も平気で生きることにあったようです。
子規を「天性の楽天家」と言った司馬遼太郎氏は、明治期には彼のような一種人生の達人といった風韻のもちぬしはありふれて存在していたようにおもわれる、とも述べています。

悲惨な病状の中、感傷におぼれず、自分に固執せず、健全な知識欲と批評精神を働かせ続けた子規。
その姿を知れば知るほど、痛々しくも、誇らしく愛おしく、思わずにいられません。

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第3回 自由民権運動に夢中になった子規の挫折

子規が松山中学校に入学したのは、明治13年(1880)3月のことでした。

漢詩の得意な子規は、この時期友人らと「同親会」という漢詩の会をつくり、回覧雑誌の中で作品を発表しました。

この頃、自由民権運動と明治政府の対立が強まり、愛媛県の県令(県知事)にも、民権主義の岩村高俊にかわって保守派の関新平が就任しました。

松山中学でも保守反動の影響が強くなっていました。しかし生徒の間には、前年に退任した校長・草間時福(くさまときよし)がもたらした“自由と民権を尊重する”校風が根強く残っていたのです。
初代校長であった草間時福は、慶應義塾出身で筋金入りの論客でした。自由教育を重んじ、生徒には県議会を傍聴させ、討論会や演説会なども開いたそうです。

自由民権の熱波に大きく影響された子規は、中学で談心会という弁論部に入ります。
立志社の自由党員が、自由民権運動の本場・高知から松山に来たときには、仲間とともに、宿泊所に面会に行くほどに熱心に活動したようです。

子規は政談演説会に熱中し、毎週のように明教館で熱弁を振るいました。ところが、明治16年に中学校での演説会が県から禁じられてしまいます。

自由な校風が失われたことに落胆した子規は、東京在住の叔父・加藤恒忠(拓川)を頼り、明治16年6月、松山中学を退学して帝都東京へ向かったのでした。

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  • 明教館・松山東高史料館
  • 明教館・松山東高史料館

    松山東高史料館には、正岡子規や秋山兄弟、大江健三郎といった、同校ゆかりの偉人らの資料が展示されている。子規と真之の名前が記載された大試験採点表もあり、二人とも成績優秀であったことがみてとれる。

    明教館・松山東高史料館はこちら。

第2回 清貧の中で育った、秋山好古と真之兄弟

兄の好古(信三郎)は、安政6年(1859)1月7日松山藩士・秋山久敬の三男として誕生しました。7ヶ月の早産であったため未熟児で虚弱なよく泣く赤ん坊でした。幼少時代も泣き虫で、いつも鼻汁を垂らしていたそうです。成長するにつれ体は大きくなりましたが、温厚で人との争いは好まない、ただいざという時には勇猛ぶりを発揮しています。

好古13歳頃のこと。美少年で有名な次兄・寛二郎が、男色を好む者たちに藩校明教館の養成舎(幼年部)に連れ込まれる事件がありました。これを知った好古は、ただちに養成舎へ乗り込み、年長者たちを負かして兄を奪還したそうです。

真之(淳五郎)が生まれたのは明治元年(1868)3月20日。佐幕で朝敵の藩の平藩士だった秋山家の生活は、決して楽ではありませんでした。そのため生まれたばかりの真之を寺へ養子にだそうかと相談していたところ、当時10歳だった好古が聞きつけ、将来自分が勉強して「自分が勉強してそのうちお豆腐ほどのお金をこしらえる」からと嘆願し、両親を思いとどまらせたのでした。

好古は約束通り勉学に励み、わずか11歳で明教館の助教(先生に代わって年少者たちに漢文の素読を教える)になるまでになりました。しかし、父は県の学務課で職を得ていたものの薄給にはちがいなく、しかも長男を東京へ遊学させていたので、家計に好古進学の余裕はありません。そこで彼は、独力自立の精神で14歳からの3年間、近所の風呂焚きなどのアルバイトをして書物を買い、独学で学問を続けます。やがて官費で入れる学校へ進学。父には「仕送りをするので真之を必ず中学にいれてください」と頼んだそうです。

さて養子を免れた真之は、丈夫でやんちゃなガキ大将に育ちました。しかもただの「やんちゃ坊主」ではなく、たとえば花火を調合して作り、友人らと打ち上げた時には、役割分担から逃走経路、証拠隠滅まで指示する知能犯。ある日とうとう母の堪忍袋の緒がきれます。手に短刀を握り締め「母さんもこれで死ぬけん、お前もお死に」と真之に迫りました。子どもと真剣に向き合い、育てた親も責任をとるという母の姿勢に、さすがの真之も観念。以後いたずらを慎むようになった・・・かどうかは不明です。

雪の日に 北の窓あけシシすれば あまりの寒さに チンコちぢまる

この少々品のない歌は7歳の真之が詠んだもので、父は真之の才能を喜んだとか。真之には芸術的センスがあったのか絵も上手で、凧に武者絵などを描いては子どもたちを喜ばせていました。母は真之の豊かな感受性を認め、松山の歌人・井手真棹のもとで本格的に歌を習わせています。

後年、兄弟揃って優秀なのはどのような教育を施したのか尋ねられたとき、母は「ただ普通のことをしただけで、何も変った教育はしなかった」と答えています。好古は藩校で、真之は私塾に通って漢学を学びました。教材の『四書五経』から、人間として正しい生き方とは何か、徳とは何かという儒教の精神を子どもたちは身につけたのです。

漢学を学ぶのも、貧しいなかで努力するのも松山の士族の家庭では普通のこと。和歌も武士の教養のひとつでした。秋山兄弟のように、江戸時代から引き継いだ教育を受けた多くの「普通」の明治人たちが、新しい時代を切り開いていったのです。

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  • 復元された秋山兄弟の生家
  • 彼らは4部屋に土間と台所だけという質素な住まいで育った。秋山兄弟生誕地は、秋山兄弟生誕地は戦災で焼失した生家を平成17年に元の姿にほぼ近いかたちで復元したもの。
    秋山兄弟生誕地はこちら。

    復元された秋山兄弟の生家の内部

第1回 子規と陸羯南、二人のジャーナリストの魂の交流

正岡子規の文学活動の多くは、在野の新聞『日本』を舞台に行われました。近代文学史上で果たした重要な役割は、新聞『日本』を主宰していたジャーナリスト陸羯南との邂逅を抜きにして考えられません。

陸羯南は、公私にわたって終生子規を支え続けました。
彼は、弘前出身で子規の叔父・加藤拓川の親友です。
加藤拓川に子規を託された羯南は、子規の才能を見抜き、高く評価して、根岸にある自宅のそばに住まわせました。

晩年子規は、羯南のことを思うだけで落涙したといいます。激痛に襲われた時、羯南が来て痛みに泣く子規の手を握ると、不思議に痛みが薄らいだとも書いています。
羯南の人徳のほどに、二人の魂の結び付きに、こちらまで涙してしまうエピソードです。

子規は「日本新聞社員」であることに強い自負を持っていました。子どもの頃から幾度となく回覧雑誌の編集に夢中になり、松山中学校時代は自由民権思想に傾倒したほどですから、生来ジャーナリストとしての資質を多分に持っていたといえるでしょう。

その子規が、新聞『日本』に入社して文苑欄を担当する。今でいう学芸記者ですね。そこで、「俳諧大要」「歌よみに与ふる書」「墨汁一滴」「病牀六尺」などの傑作を次々と発表していきました。
子規は、「新聞」という最先端のメディアを存分に活用して、日本の文芸に命を吹き込む「写生」論を展開し、六尺の病床から、俳句・短歌・散文をみずみずしいものに作り替えていったのです。

Information

  • 坂の上の雲ミュージアム 企画展「日露戦争と明治のジャーナリズム 新聞『日本』と子規」
  • 2011年2月下旬(予定)まで、坂の上の雲ミュージアムで、企画展「日露戦争と明治のジャーナリズム新聞『日本』と子規」を開催しています。

    坂の上の雲ミュージアム 企画展「日露戦争と明治のジャーナリズム 新聞『日本』と子規」